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「地方自治」による「大学の自治」の圧殺 ―東京都立大学の解体―
 立教大学法務研究科 人見 剛
2013.5.19
 
(経済科学通信131号(2013年4月号)40頁〜46頁【掲載特別許可取得済】)
 

はじめに

 2012年9月、大都市地域における特別区の設置に関する法律*1が成立し、橋下徹大阪市長肝いりの大阪都構想を実現する法制度の基盤が整えられるに至った*2。もっとも、「大阪から日本を変える」と謳って大阪府民・大阪市民の支持を集めた橋下氏であるが、衆議院に54議席を持つ国政政党たる日本維新の会の共同代表となった今や、これまでの言動を維持して自治体の首長に留まるかは大いに疑問符が付こう。「2万パーセントない」と言っていた知事選に出馬をし、また知事就任後、議会対策に手を焼いたためなのか、地方議員の執行機関の幹部職員への登用という自治体統治システムにおける議院内閣制的要素の強化という重大な問題提起をしていたにも拘わらず、自身の議会基盤が整うとその後は、この点に全く黙するようになっているのであるから、大阪「都」構想も同じように雲散霧消しないとも限らない。

 さて、この点は措き、本稿が主題とする公立大学改革について、大阪府知事時代に橋下氏が著した著作『体制維新―大阪都』をみてみたい*3

 まず、大阪「都」構想の主要な根拠の一つとされている大阪府と大阪市の二重行政の解消の一例として大学が挙げられている。「都道府県立並の体育館も図書館も大学も浄水場も、狭い大阪府域内に、府立と市立の両方があり非効率な形態になっています*4。」

 そして、その大阪の公立2大学(大阪府立大学と大阪市立大学)を、都立4大学(東京都立大学、東京都立科学技術大学、東京都立保健科学大学、東京都立短期大学)を押し潰して設立された首都大学東京と比べて次のように述べている。「全国で二番目に狭い大阪府域内に、普通なら都道府県に一つしかないような大規模施設が、二つあることが問題なのです。公立の総合大学も府立、市立の二つ。大阪より巨大な都市である東京都でも首都大学東京の一つです。首都大学東京一つにかかっている東京都の財政負担は年間約120億円。一方府立大学への大阪府の財政負担は約100億円、市立大学への大阪市の財政負担は約108億円(全て10年度)です。合わせると合計208億円にもなり、大阪全体としては公立総合大学に東京都以上に税金を投入していることになるのです。東京ですら約120億円なのに。大阪府庁も、大阪市役所も大阪全体のことなど気にしていない。自分の所管する大学のことだけを意識しているのです*5。」

 かくして、大阪の公立2大学の統合が唱えられることになる。「府立大学・市立大学も経営統合し、公立総合大学では日本でナンバー1となります。投じられている税金は、現在でも大阪府・市合わせて年約200億円。首都大学東京の2倍近くです。これだけのお金を集中して効率よく使えば、統合した公立大阪大学は、アジアの大学競争の中で確実に勝ち残ることができます*6。」

 さて、問題は、こうした大学の統合それ自体ではない。統合して成る新たな大学が如何なる大学になるのか、そして、それに大学人の意思がどのように反映されるのか、という大学の自治の問題である。本稿は、橋下氏と政治的タッグを組んでいる石原慎太郎氏*7と大阪市特別顧問であった中田宏氏が、それぞれ東京都知事、横浜市長として10年ほど前に行った大学「改革」を振り返ってみることも何らかの参考になると考え、筆者が実際に経験した都立大学破壊のプロセスの一端を紹介するものである*8。横浜市立大学の事態については、吉岡直人『さらば、公立大学法人横浜市立大学―「改革」という名の大学破壊』(下田出版、2009年)という詳細で貴重な書籍があるので、是非これを参照願いたい。


I 秘密裡に進められていた突然の方針転換

 石原都政下の都立の大学「改革」の直接の発端は、石原都知事が、2000年に当時の地方財政危機も背景として都立の大学の民間への売却に言及したことに始まり、翌年都立の4大学と都の関係部局が協議する大学改革推進会議が設置された。そこでの協議を踏まえて、最終的に短大と都立大夜間部を廃止し118名に及ぶ大幅な教員定数減を伴って3大学を統合して人文・法・経・理・工・保健科学の6学部に再編し、かつ法人化することが、2001年11月の東京都大学改革大綱としてまとめあげられた。その間、大幅な定員削減を受ける部局を中心に学内外的にいろいろな軋轢や批判はあり、また法人の制度設計として理事長・学長の分離や経営部門の権限の強さに対する批判などがあったものの*9、各大学と設置者東京都の間では協議の結果を尊重し、さらにその詳細設計とカリキュラムなどの具体化を目指して作業が行われていたのであった。

 しかし、2003年8月1日、石原都知事は、記者会見において、突如、それまで積み重ねてきた前述の改革大綱とその詳細設計をご破算にし、新しい大学構想「都立の新しい大学の構想について」を発表した。それによれば、「大都市における人間社会の理想像を追求することを」目的とし、「都市の文明」を学ぶ都市教養学部の他、都市環境学部、システムデザイン学部、健康福祉学部の4学部からなる新大学を設置し(その名称は、後に「首都大学東京」と決定される)、また語学・情報教育・体育の教育を担う基礎教育センター、都民向けの生涯学習機関としてのオープンユニバーシティ、全寮制の東京塾を新たに設けるとされた。さらに、これまでにはないカリキュラムとして、必修科目を全廃し、学生が自由にカリキュラムを設計するため、他大学で取得した授業の単位や社会経験を単位認定する「単位バンク(仮称)」制度の導入などが謳われていた。教員の人事については、後に全面的な5年の任期制・年俸制を導入し業績主義を徹底するとされた。

 かかる構想は、知事の指示で設置され、非公開で、そのメンバーも座長の岩手県立大学学長(当時)の西沢潤一氏以外は明らかにされなかった「新大学の教育研究に関する検討会」で検討されてきた内容を唐突に決定事項として発表したものであった。このように隠密潜行に事を運び、それを突然マスコミに発表してサプライズを演出する石原都政の行政手法は、彼主導の施策においてしばしば用いられてきた。その手法が遺憾なく発揮されたのは、いわゆる銀行税の導入であったことはよく知られていよう。

 1999年夏ないし秋頃、石原知事らは都庁内で秘密裏に東京都独自の銀行税の検討を開始し、翌2000年1月には、自治省と全国銀行協会から相次いで銀行新税構想の有無の問い合わせがあったときも全面的にその構想を否定しながら、同年2月7日、臨時記者会見を開き、法人事業税について、大手金融機関を対象とする外形標準課税を導入する方針を発表したのである。その会見において、石原知事は、「事前に情報が漏れると、キーキーいう人もでるだろうし、銀行の反発もあるだろうから」、「今日まで全くその秘密裏にことを行ってきました。」という趣旨の発言をし、この日の発表は「いってみりゃ、ヘッドスライディングのホームスチールみたいなもんだな。」と放言したのであった*10


II 設置者権限によるトップダウンと秘密主義

 2003年8月の新構想の発表後、その具体化の作業も、大学の公的機関(総長、評議会、教授会)の意思を排し、知事によって後に新大学・首都大学東京の学長予定者に指名されることになる西沢潤一氏他の学外者を中心に、「学内の資源を掌握している」個人としての現大学の学部長を加えた教学準備委員会を設置して進められることになった。この委員会設立の直前の8月29日に行われた都の大学管理本部長発言には次のような一節がある。

 「強調しておきたい点は、あくまでも『大学の統合』や『新大学への移行』ではなく、4大学の廃止と新大学の設置を行うということである。4大学の廃止と新大学設置は、設置者権限であり、これから設置者責任の下で新大学の設計を行っていく。したがって、基本的に旧4大学は新大学を設計するうえでのひとつの資源として受け止めている。新大学の設計には、(1) 基本構想に積極的に賛同し、かつ (2) 旧大学の資源に精通した方を任命したい。言い換えれば、旧大学の改組ではないことから、旧大学の調整によるものではなく、基本理念の枠の中でより良い大学を作るために積極的に協力してくれる人たちの手で新大学を設計していく」。

 都立の新大学は、既存の4大学の単なる統合ではなく、それらの廃止と新大学の創設なのであり、既存大学の意思を聴く必要は毛頭ない、というわけである。当然予想されるであろう大学からの異論を封じるため、教学準備委員会の委員に指名された都立大学の学部長らは、会議の内容を口外しないことに同意するといった誓約書まで書かせられた。

 こうした強圧的な手法はさらにエスカレートし、翌9月、大学の意見を全く聴することなく、教員配置案(例えば、人文学部の語学系教員の多くが学部からはずされて基礎教育センターやオープンユニバーシティに配属されることが計画されていた)を一方的に策定し、新大学設立本部長宛の同意書の提出が、一人一人の教員に求められた。そこでは、同意する事柄が次のように記されていた。「提示された新大学における配置案に同意したうえで、新大学設立本部及び教学準備委員会の下で、新大学に関する今後の詳細設計に参加することに同意します。また、教学準備委員会が必要と認めた場合を除き、詳細設計の内容を口外しないことに同意します」。

 こうした、一方的で強圧的な手法に対する学内の反発は強く、当時の茂木俊彦都立大総長は、同年9月29日に大学管理本部長宛に意見を提示して「憲法、教育基本法をはじめとするあらゆる教育法規の原理的趣旨に反する行為である」と断じ、さらに「新大学設立準備体制の速やかな再構築を求める」と題する声明*11を10月7日に発表して、同意書提出要求の白紙撤回を求めた。個別の教員も、学部学科によって温度差はあれ、多くがこうした手法に対して反発し、都立大では同意書を提出した教員は精々4分の1にとどまったとみられている。


III 踏み絵と恫喝

 こうして8月1日以来の大学管理本部のかかる高圧的で一方的な「改革」の進め方に対しては、学内外から多くの抗議の声が上がり*12、学内では教授会、助手会、学生自治会、院生会などの要請・質問書などが出され、「開かれた大学改革を求める会」「都立の大学を考える都民の会」等の組織が誕生し、年明けの1月には都立4大学教員の過半を超える432名の教員の抗議声明も公表され、保守頑迷の都立大文系教員だけが反対しているだけであるという石原知事の決めつけ(願望?)が誤りであることを顕わにした*13。都立大学の学生・院生からも大学管理本部に対する説明要求と学修・研究環境の保障要求が繰り返され、これは、2003年10月末に一定の成果をみることになる。すなわち、都立大などの既存大学は、公立大学法人の下で2010年度までは存続されることが学生向けに発表されるに至ったからである*14。これは、「1法人5大学方式」と呼ばれ、学生ばかりでなく教員にとっても益するものであったと思われる。新大学発足後もその教員に就任することを潔しとせず、かつ他大学に異動するのが直ちに困難な者も、都立大学が存続する期間その教員として留まり得る途を開くことにもなったからである。

 教員の中からはこうした都当局の手法に抗議して辞職し、あるいは新大学構想を嫌って他大学に異動する動きも活発化し、特に2004年度から開講予定の法科大学院の教員に予定されていた法学部4教授の抗議辞職は、法科大学院の入試延期と急遽の補充人事を必要とし、都当局に大きな打撃になった*15。これもきっかけとなって、都当局は、2004年2月になって再び新大学への就任の意思確認書の提出を全教員の自宅に送りつける挙に出た。その際、新大学の設置申請のために文科省から早期に確実な意思確認を採ることが求められた旨が、その文書には書かれていた。しかし、実は、文科省は、このような「踏み絵」を求めてはいなかったのである。当時の河村文部科学大臣は、国会答弁において「東京都が新しく4大学を統合して新大学を作ろうということで、2月10日付けで東京都大学管理本部長の名前で4大学の現職教員に対して、首都大学東京就任承諾によっての意思確認書の提出を求めたということは伺っておりますが、しかし、この求めた文書の中で・・・・文部科学省から強い意見があって意思確認を緊急に行わなきゃいけなくなったと記載があったわけですが、文部科学省からこのような意思確認書を集めるように要請した事実はありません。そこで、文部科学省としても、2月10日に都に対して訂正を申し入れたわけでございます*16」と述べているのである。

 しかし、都立大等を廃止し新たに設置される大学の設置申請の期限が迫る中、新大学への就任意思の最終確認として突きつけられた意思確認書は、教員間に動揺と分断をもたらし、保健科学大学、短大、科学技術大学のほとんどの教員がこれを提出し、都立大でも工学部が一致して提出するほか、法・経両学部はそれぞれ内部で分裂し、非提出を組織的に貫いたのは理学部と人文学部ということになった。もともと都立大内にも「総長はもっと柔軟に都との調整の道を探るべきだ、そうしなければ都立大はお取りつぶしになってしまう危険性が大であるという考えを表明する人*17」もおり、さらに都当局の方針に協力的な教員も無かったわけではないのである。

 同年3月には、新大学の学長予定者西澤氏と大学管理本部長の連名で一通の文書*18が都立大学総長以下大学執行部に伝達された。それには、「今後の改革の進め方」について、「知事にはまったく新しい大学として『首都大学東京』を17年度に断固として開学する強い思いがある。改革の本旨に従い、引き続き教学準備委員会を中心に検討・準備を進める。改革に積極的に取り組む先生方とともに、『首都大学東京』を創る。改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はありえない。『首都大学東京』は、東京都がそこに学ぶ学生や東京で活躍するさまざまな人々のために設置するものであり、教員のためではないことを再確認して欲しい。」と記されていた。そして、先の「意思確認書提出の取扱い」について、「新大学に前向きな姿勢で期限を守って提出頂いた方々と3月に入ってから提出された方々を同様の取扱いとする訳にはいかない。何らかの仕切が必要である。また、公に改革に批判を繰り返す人たち、意思確認書の提出を妨害する人たちには、意思確認書が提出されたからといって、建設的な議論が出来る保障がない。なんらかの担保がないかぎり、新大学には参加すべきでない。」と恫喝を加えるものであった。あくまでも都の「改革」方針や手法に異議を唱える教員達に屈服を迫り、かかる「改革」によって成る新大学=首大への就任の意思を明らかにしない教員にむけての最後通牒であった。

 この恫喝文書に対しても、都立大学内各方面から撤回要求がなされたが、こうした声に耳を傾ける大学管理本部ではなかった。こうして、組織単位で最後まで残っていた都立大の人文学部も、内部的に分断され、かつ学内外で孤立化したため、(提出を了としていない教員も含めて)意思確認書を一括して提出することに踏み切り、最終的には新大学=首大の設置申請手続に協力していくことになる*19

 なお、この後、2004年4月の新大学設置申請において25名の教員が就任承諾書を提出しなかったため大学設置審議会の予定された7月の認可答申はなされなかった(最終的に認可答申は、2004年9月になされる)。このことを指して、都の「改革」に最後まで反対し続けた大学教員は25名に留まったかのごとき報道もみられた。しかし、これまで述べたように、設置申請手続に至るまで、多くの教員がこの「改革」を認めずに都立大を去り、あるいは「意思確認書」を提出せず最初から新大学の申請手続の対象から除かれていたのである。2003年の時点で都立4大学に所属した598名の講師以上の教員のうち、110名以上の教員が新大学=首大には就任しなかったのである*20。例えば、筆者の所属していた法学部法律学科では、2003年時点の教員24名のうち首大に就任した教員は8名にとどまり、11名が首大への就任を拒み、残りの5名は、定年ないし実質的な定年者と他大学への転出者であった*21

 また、新大学構想にあった都市教養学部内の経済学コースは、経済学部の近代経済学グループ12名が、研究機関としての大学を軽視していること等を理由に最後まで意思確認書を提出しなかったため*22、そのコース自体が構想から脱落することになった。そのため、都立大学時代に採択された文科省の21世紀COEプログラムも辞退するという極めて異例の事態にもなった。


IV 差別と職権濫用

 都当局は、都立大学の研究費の執行にも介入を行った*23。都立大の研究費の配分基準として、まだ発足していない首大の理念に合致する研究に研究費を傾斜的・重点的に配分するとしたのである。都立大の2004年4月の「傾斜配分研究費の考え方について」という文書では、「新大学に就任を予定していない教員は応募できない。また、共同研究グループの構成員となれない。」「但し、新大学発足前の定年退職予定者などのうち新大学の理念に賛同し、今後の新大学の発展に寄与する意思がある者であれば応募できる。」と記されていたのである。

 2003年夏以降の大学「改革」の在り方に反対し、新大学への就任承諾書を提出しなかった教員は、大学研究費の4割に及ぶ大幅な研究ファンドにアプライすらさせない、というあからさまな差別であり、まさしくやりたい放題であった。

 これだけでも驚くべき自治介入であるが、その後、都立の大学の教職員組合の争議行為をめぐる教員処分問題について、都立大学評議会が3名の懲戒処分対象者のうち1名について法定処分を下さず「訓告」処分とする決定をしたところ、都当局は、この決定の再審査をしなければ先の傾斜的配分経費の執行を差し止めるという通告もしてきた。常軌を逸した職権濫用であり、当時の教育基本法10条1項(現在の16条1項)が禁ずる「不当な支配」そのものと言わなければならない。ただその後、評議会がかかる恐喝に屈せず、あまりの逸脱行為であるだけに都当局も無理を悟ったのか、研究費の執行が行われることになった、という一幕もあった。


おわりに

 2005年4月に発足した首都大学東京及び存続した都立大学のその後については、筆者は十分な情報を持ち合わせていないので、ここで確たることを述べることは差し控える。2006年9月に刊行された、都立の大学を考える都民の会編『世界のどこにもない大学―首都大学東京黒書』(花伝社)の第1章にその時点での首大の状況報告があること、また首大非就任者の会の岡本順治氏のホームページ( http://pocus.jp/damaran.html )を紹介するにとどめておきたい。

 さて、本稿の「はじめに」で言及した横浜市立大学「改革」を論じた吉岡直人氏は、都立大学と横浜市立大学の事態を「あからさまな権力の介入という点では両者何ら変わるものではない」としつつ、両者の違いとして、「石原氏は『設置者が大学に口を出して何が悪い、トップダウンで何が悪い』とあけすけに開き直るのに対し、中田氏は『大学に口を出したことはない、トップダウンで決めたことはない』・・・と一応大学の自立性を認めるような発言をする点である」と述べている。こうした相違は、両首長の個性の違いに由来する点もあるかもしれないが、大学「改革」の内容・性格によるところも当然あると考えられる。横浜市立大学のそれは、既存の大学の改変に留まるのに対し、都立大学においては他の3大学との統合を契機として、新たに別の大学を新設することが設置者東京都によって構想されたのである。このことが、新大学の基本設計等について、廃止される既存の大学の教員及び教員組織の意見を聴く必要は無いという都当局の主張の論拠になっていた。むろん、都立の大学「改革」における法人化は、移行型地方独立行政法人であり(地独法人法59条)、新大学の設置申請も改組転換方式による簡易手続であったのであり、「新大学」設置を論拠としたトップダウン強行は、実は欺瞞に満ちたものであったのである。

 他方、両大学に共通して言えることは、公立大学一般における設置主体・自治体との関係の難しさである。教育・研究・学術の推進発展をミッションとする(縦割り行政部局の一部である)文部科学省に代表される国の強い影響下にある国立大学、教育・研究機関を設置運営することをほとんど唯一の目的とする学校法人が設置する私立大学、これらと比べて、公立大学を設置する自治体は、広範な地域の公共的課題の総合的行政主体であり、大学の設置・運営は、その抱える課題のごく一部にとどまる。勢い設置者自治体の大学運営に対するコミットメントは希薄化し、あるいはコミットする場合にも学問・教育の普遍的な側面よりも特殊性、当該地域への貢献の面に偏ることになる。産業推進・医療・保健・福祉・環境・防災など各種の行政政策と学術・研究・教育行政が無関係でいられるわけではないが、学問の研究・教育の発展、そしてそのために必須の自由と自律に対する配慮が、一般行政主体である地方自治体においては見失われ易いのであろうと思われる*24

 かつて、第二次世界大戦後、新制大学発足前の1947年末から翌年1月にかけて、教育刷新委員会において国立大学の地方委譲問題が審議されたという。旧帝大など10国立大学を除きそれ以外の官立高等教育機関を自治体に移譲する案が浮上し、これは戦後改革の一つの柱である地方自治の理念に定位したものであると考えられるのであるが、この構想は実現しなかった。その理由は、いくつかあるが、地方自治体が「地方政治的利益本位的事情に動かされ易く、大学の自由とその自治を保障することが困難であり、中央で所管する以上の危惧の念が生ずる*25」こともその一つであった。都立大学と横浜市立大学における上記のような事件は、今日も事情はさほど変わっていないことを意味するのかもしれない。一般の政治選挙で選出される首長の意向がそのまま反映しがちな公立大学においては、首長が暴走するとき*26、その「大学の自治」の担い手である私たち教職員そして学生達は、残念ながら非力であった。しかし、首長が「大学」をその意のままにしようとすれば、都立大学や横浜市立大学において生じたような教員の大量流出という事態になる、ということは、全国の首長達が肝に銘じるべきなのである。


*1 この法律の内容について参照、白藤博行「大都市地域特別区設置法」法学教室389号48頁以下。
*2 大阪「都」構想に対する批判は、汗牛充棟であるが、例えば、澤井勝・村上弘・大阪市政調査会編著『大阪都構想Q&Aと資料』(公人社、2011年)、高寄昇三『増補版・大阪都構想と橋下政治の検証』(公人の友社、2012年)、榊原秀訓編著『自治体ポピュリズムを問う』(自治体研究社、2012年)など。
*3 本稿の校正中に、大阪の府市統合本部会議において、大阪府立大学と大阪市立大学を統合して2016年に新大学を設立する方針が決定された旨の報道に接した。
*4 橋下徹・堺屋太一『体制維新―大阪都』(文藝春秋、2011年)164頁。
*5 橋下・堺屋・前掲書(注4)185〜186頁。
*6 橋下・堺屋・前掲書(注4)223〜224頁。
*7 橋下氏と石原氏の個性的な類似性の指摘として、吉富有治『橋下徹・改革者か壊し屋か』(中公新書ラクレ、2011年)121頁以下。
*8 以下、本稿で引用する多くの文献中相当数のものは、筆者も参加している首大非就任者の会のホームページ( http://www.kubidai.com )にも登載されているので参照を乞いたい。
*9 この時期の公立大学の法人化問題に関する拙論として、人見剛「公立大学と独立行政法人」自治総研266号1頁以下、同「公立大学における法人化問題」法の科学32号161頁以下。2003年8月以降の都立大学における法人化問題について、米津孝司「公立大学の独立行政法人化と大学自治―都立四大学の再編・統合と地方独立行政法人法をめぐる憲法問題」季刊教育法140号51頁以下、江森民夫「『首都大学東京』設立と地方独立行政法人法化の問題点」労働法律旬報1581号30頁以下、人見剛「地方独立行政法人法と公立大学法人化―東京都の大学『改革』を中心に」労働法律旬報1582号4頁以下。
*10 大手銀行から提起され、最終的に和解で決着した東京都銀行税条例訴訟の東京地裁判決(平成14年3月26日判時1787号42頁)において、当事者間に争いの無い事実として、本文に紹介するような事実が認定され、かかる事実認定は、東京高裁判決(平成15年1月30日判時1814号44頁)でも維持されている。
*11 この声明の全文は、東京都立大学・短期大学教職員組合/新首都圏ネットワーク編『都立大学はどうなる』(花伝社、2004年)79頁以下に登載されている。事変の渦中に都立大総長を務めていた茂木俊彦氏の総括として、茂木俊彦『都立大学に何が起きたのか―総長の2年間』(岩波ブックレット、2005年)。
*12 例えば参照、東京都立大学人文学部文学科仏文学専攻研究室「〔解説〕国境の彼方から文学軽視に警鐘」世界2004年7月号220頁以下。
*13 石原知事は、その後も「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのもむべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合が反対のために反対している。笑止千万だ」などの発言をし、これに抗議する会が組織され、損害賠償訴訟も提起された。この裁判は、東京地判平成19年12月14日判タ1318号188頁を経て、最終的に平成21年1月30日の最高裁の上告棄却・上告不受理で賠償請求が認められずに終結している。参照、http://www.ishihara-frago.com
*14 その内容について詳しくは、茂木・前掲書(注11)22頁以下。
*15 この問題を中心に都立大学問題を論じた拙論として、人見剛「東京都による大学『改革』の法的問題点」法律時報76巻3号74頁以下。
*16 2004年2月27日の衆議院文部科学委員会における石井郁子議員の質問に対する答弁。
*17 茂木・前掲書(注11)20頁。
*18 その全文は、東京都立大学・短期大学教職員組合ほか編・前掲書(注11)83頁以下に登載されている。
*19 初見基「ある大学の死―都立大学教員はいかに敗れていったか」世界2005年5月号165頁以下。
*20 約110名の中には当然定年退職者も含まれるが、その数は多く見積もっても10数名であろう。非就任者の大多数は、他大学に移籍することになるが、教員の退職状況については、首大非就任者の会のホームページ( http://www.kubidai.com )の「教員流出」の項目を参照。
*21 法学部の状況を中心に論じた拙論として、人見剛「都立大学法学部法律学科の崩壊」法学セミナー603号66頁以下。
*22 東京都立大学経済学グループ(有志)「都立新大学構想の評価と経済学者たちの選択」世界2004年7月号209頁以下。
*23 川合康「都立新大学問題―何が起こっているのか」世界2004年4月号207頁以下、東京都立大学経済学グループ(有志)・前掲論文(注22)212頁。
*24 公立大学法人への法人化も、こうした設置者自治体からの相対的自立性を確保する一つの手段ではあるのである。
*25 清水良次「大学の地方委譲」自治研究75巻11号39頁。
*26 田村秀『暴走する地方自治』(ちくま新書、2012年)。
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